『あいうえおえほん』という一冊の絵本から始まった戸田デザイン研究室。
1990年の会社設立から今日まで、会社の歩みについて語ったことはほとんどありませんでした。
創業者であり作家であった戸田幸四郎とは、一体どんな人物だったのか。どんな思いで絵本を作っていたのか。そしてこれから戸田デザイン研究室はどこへ向かうのか。
父である戸田幸四郎亡きあと、代表を務める戸田靖が様々なエピソードを交え、戸田デザインの「これまでとこれから」について語ります。 (聞き手:広報 大澤千早)
父との仕事で見えたもの。
ーー 戸田さんご自身はいつ頃から幸四郎さんと仕事をされたんですか?学生時代から手伝いをしていたと伺いましたが。
戸田 うん(笑)。もう家中、本だらけよ!ウチはこれから、これを売って食べていくのか〜と思いましたね。とにかく売るしかないから、まず母が車に積んで幼稚園に売りに行きました。私も見よう見まねで行かされて…。
ーー いきなりの営業ですね。しかも飛び込み営業!売れましたか?
戸田 当時はそれでも「ぜひ園児に読ませたい」と、結構な注文をもらうことができました。そのうち、注文書を作ってみたり、今度はその注文書を工夫して注文率を上げたり。のんびりした時代ということもあったのかな。かなり売ることができましたよ。
一方で書店の方は苦労しました。ある時、紀伊國屋書店の仕入に本を持って行くことになって。紀伊國屋書店の仕入は相手が誰であっても、本そのものの価値を見てくれました。それでこれはぜひ取扱いたいというお話しをいただいて。全国の紀伊國屋書店に『あいうえおえほん』が配本されました。そこから取次にも繋がっていった訳です。
ーー 「良いモノと情熱があれば、なんとかなる。」 戸田デザイン研究室に密かに流れるベンチャースピリットはこの頃に築かれた(笑)。その後も手伝いは続けられたんですか?
戸田 定期的に幼稚園にも販売に行きましたし、編集の手伝いなんかもしましたね。そうこうしている内に私も就職の時期を迎えて、出版社に入社しました。
ーー 戸田デザイン研究室で仕事をしようとは思わなかったんですか?
戸田 卒業したら家を出て自立する!と考えていましたから。就職しないと、と思いましたね。出版社で働いた後、広告の制作会社に転職をしてコピーライティングをしていました。
ーー 当時はコピーライター全盛期の頃ですよね?充実していたのでは?
戸田 まさに全盛期。時代も時代だったから仕事も多かったしね。充実していたんだけど、その内作りたいものが出てきて…。それが『国旗のえほん』なんです。当時麻布に住んでいて、あの辺りには大使館が多くあって色々な国の国旗がはためいていました。そのデザインがどれも面白くてね。これを紹介する本があったらいいよなーって。
大して良いと思っていないものを、素晴らしい!と表現することが多い広告の仕事から離れたいという気持ちもあったのかな。その案を幸四郎の所に話しにいったら「面白い!ぜひ、やろう!」と言ってくれて。まずは自分が作りたい本を作ってその広告を作り、売ることにしました。
【自身の出発点『国旗のえほん』を手に。】 |
ーー ご自身の作りたいものがあって、この仕事をスタートしたんですね。しかもウソのないものを作りたいと。親子二代にわたる戸田スピリットですね(笑)。『国旗のえほん』を出版後は、幸四郎さんと一緒に本作りに関わっていかれたのですか?
戸田 いや、前職の繋がりでコピーを書いたり、しばらくフリーで仕事をしていました。でも長くは続かず。お金も底をついて家賃を払うこともピンチな状態に…。
ーー マズイですね(笑)。
戸田 そうそう(笑)。だからまずは稼がないといけないと思って。会社として法人化して戸田デザイン研究室に腰を据えようと決め、1年は営業に徹しようと思いました。その頃はまだ戸田デザインの本も一部の書店でしか取扱いもなかったから、これは全国を回れば仕事になるぞと思ったしね。
東海から九州、北海道と各地の書店員さんに作品を売り込んで、売場を作りました。出張先から事務所に毎晩注文のFAXを送るのが楽しかったですね。
ーー 営業の全国行脚から始めて、その後、制作に関わるようになったんですか?
戸田 そうですね。コピーも書いていた経験もありましたし、文章の構成なんかはよく任されました。レイアウトも考えたり販促物も作ったり。まぁ、なんでもやりましたね。幸四郎がどんな作品を作りたいのかも聞いて、どう売っていくかも考えました。
ーー ちょっとしたプロデューサーの役割ですね。実際に幸四郎さんと仕事をして、どんな影響を受けましたか?
戸田 うーん、色々学んだと思います。一番大きかったのは、どんな小さな販促物ひとつでも「モノの価値が伝わるデザインをする」ということだったかな。
ーー 戸田さんがとても大事にされていることですね。
戸田 ある日、注文書を作ったら幸四郎にやり直しをさせられたんです。本の説明を書いた文字だけの注文書で、セールスポイントも盛り込んだしOK!と思ったんだけど、幸四郎は「作品にふさわしくない、美しくない」と。我々は感性に訴える本を作っているのだから、注文書ひとつでもそうあるべきだと。
自分も広告の仕事をしていたから、その辺りのことは理解できていると思っていたけど、あまかった。もっと深く向き合わないといけないんだと学びました。
ーー 幸四郎さんはご自身の作品に対して、ブランディング視点をお持ちだったんですね。そのさじ加減は、長く広告デザインに携わっていた経験からきていたかもしれませんね。
戸田 それはあると思います。モノの魅力を伝えることのバランス感覚に長けていました。絵の描き方、デザインにしても「特徴的なところを際立たせる」という手法なんか、やはり広告の経験が活きていたと思います。それが独特の面白さにもなっていましたし。
ーー 近くでモノを作っていく様子もご覧になって、いろいろな発見もあったのでは?
戸田 発見というか、オリジナルの強さは感じましたね。『リングカード』にしても、初めて試作品を手にした時はワクワクしました。
ーー 新しい作品が生まれるワクワク感ですか?
戸田 それもあるけれど、自分の作り出したいモノを突き詰めていく感じにワクワクしたな。 幸四郎は、色ひとつにしても「子どもだから、こうしておいたほうが良いだろう。」なんてことは決してありませんでした。
ーー 戸田デザイン研究室の理念でもある「美しいと感じる心に大人も子どももない」を体現していた訳ですね。
戸田 そうだね。いいモノは子どもだってわかる、と思っていましたね。それこそ感覚、センスには年齢なんて関係ないって知っていたんじゃないかな。そこを表現していくことが、自分のオリジナリティだと自覚していたと思います。
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